俗世に焦がれる
走っても走っても海がぴったり横についてくる道のり。それは闘いの幕開けへと続くカウントダウン。江ノ電の窓からぼんやりと、きれいに晴れた空を見つめていられるのは今のうち。電車を降りて踏切を渡ったら最後、もう元の世界には戻れない。
その数分後、分厚いセーターを着込んでマフラーに顔をうずめた私は、北鎌倉・円覚寺の、きれいに整列した砂利のうえにジリッと立っていた。
「禅とは、無駄をなくすことなのです。」
と、乙武洋匡に似た和尚さんが言った。
「J-POPを聴くことも、トランプゲームに興じることも、お化粧をすることも、自然界には存在いたしません。それらすべてを取り去った時に、人間本来の生き方やあるべき姿が見えてくるのです。」
乙武さんはとつとつと語る。 無駄な動きや感情は極力そぐようにと。
私は裸足であった。時間は夜であった。場所は鎌倉の山の中にある、円覚寺本殿のサブ的な建物の縁側のようなところであった。 これは痛いのか寒いのか眠いのか。つらいことには間違いないが、なぜつらいのかわからない。私は今までに経験したことのない感情を抱いていた。 あなたの言う「無駄」とは、まさにこの感情のことなのでしょうね。乙武さん。 そして禅が向かっていく無の境地とは、この感情を無駄だと思うことすらなくなることなのでしょうね。ねえ乙武さん。
私はひたすら、新しい服がほしい、カラオケに行きたい、ビーフシチューが食べたい、と念じ続けていた。仏様の、目の前で。
早送りみたいな布団の敷き方がどうしてもできず、
「消灯!」
という声を最後に音も光もみんな死んでしまったみたいな部屋の中で、息を殺してひとりで布団メーキングをしていた時、
「わたしのくつ下ないんだけど…」
とささやきが聞こえてきた。
ああ、仏さまの声だろうか。
私の肩をトントンと叩いたのは仏さまだろうか。 となりで、キョロキョロしながら敷き布団をめくったり掛け布団をとっぱらったりしているのは、やっぱり仏さまだろうか。
いとおしい、その姿。
2人でくつ下を探しながら、声にならない声で笑い続ける。明日の朝は、4時半に鐘が鳴るだろう。