墓場
ある日、フチのギザギザがつるっつるになっている100円玉に出会った。 昭和47年生まれのそれだった。
若者たちがにょきにょき伸びだした80年代にイケイケの学生時代を過ごし、はたちやそこらで激動のバブルに生き、結婚し、暗い90年代に子供を産んで育てた100円玉である。 彼はまだ現役だ。 荒波に揉まれ、時代に消費されながら時代に食らいついてきたという矜持さえ感じる。
娘が大学を卒業するまでは、決して650円のダブルチーズバーガーセットに対して支払われた1000円札のお釣りにはならない、と心に誓いながら、幾度となく「100円のお返し」として小僧や主婦やサラリーマンの財布を駆け巡ってきた。 怒ったガールフレンドを雨の中で待ち続ける男子高校生の震える手から、自動販売機に放り込まれただろうし、真夏の少女のおつかいのお駄賃として母親からガリガリくんと一緒に手渡されたりもしただろう。
そんなことはどうでもよく、彼は、明治スーパーカップと同じ年に生まれた100円玉である娘が、スーパーカップひとつ買うのにさえ足らない存在だということを悲しんだ。
そうやって生きてきた100円玉である。
私は彼のこれからを思わずにはいられない。はたしていつまで、彼の人生は続くのか。 そして終わりが来るとしたら、彼はどこでどうやってそれを迎えるのだろうか。 小僧はニートになり、主婦は老人ホームへ入れられて、サラリーマンはすでに自殺してしまっているとしたら、今度は財布ではなく通行止になったトンネルの中で、じっと息を潜めて彼は生きていくのだろうか。拾われることもなく、風と時間にさらされて。
最期の時、彼が消えゆく瞬間を私は見たい。でもたぶん永遠に、見ることはできないだろう。私が死んでからも、暗いトンネルの奥で、あるいはスーパーマーケットで、コインロッカーで、彼はボロボロの姿でまだ時代をさまよい続けるのだ。逃げも隠れもせず。ただ誰かに必要とされるのを待ちながら、自分の生まれてきた日を忘れられずに。
100円玉の雨が降り注ぐ100円玉の海で溺れても死ねない彼の、墓場はどこだ。