月とレモン
「月に行きたいと思う?」
レモンを手のひらでもてあそびながら、まゆみが言った。
「行きたくない。月に行ったら月が見られないし。」
ころころと揺れるまな板の上のレモンに、凛々しく研がれたナイフの先を切り入れながら、あゆみが答えた。
すたん、と刃が下りる。
レモンはまんまるの断面をふたつ見せ、若い双子のようにはつらつと呼吸している。
断面をまな板に押し付け、また刃を入れる。
たん、たん、たん、たん、ちいさな半円がたおれていく。
それらはまるで野原の草花のように、そよそよと呼吸をするだけだ。
「月の中ってどうなってるの。」
あゆみは指先で、少し汗ばんだ額をぬぐった。ふっとレモンの匂いが通り過ぎる。
「涼しそうだよね。」
半円の、むこうが透けて見えるようなレモンが皿の上で山のように積み重なって、部屋の中央にある。
まゆみはその中のひとつをぺらりとつまんで、頬にくっつけてみる。
そこらじゅうに、レモンの匂いがただよっている。
「賑やかそうな感じもする。」
あゆみの手のひらはしっとりと濡れ、冷たい。
「月から月は見えないけど、地球を見ればいいじゃん。きれいだよ、たぶん。」
まゆみがレモンを舌にのせる。キリキリと舌が痺れて、思わず顔をしかめた。
「でもそのとき、地球に私はいないしなぁ。ねえ、目つぶってみて。レモンの中にいるみたい。」
あゆみが手を止め、目を瞑った。
まゆみも目を瞑り、だらりとソファの背にもたれる。
窓の外には、月がある。
床には、いくつものレモンが転がっている。
「私、月になりたいかもしれない。」
あゆみは手のひらにたっぷりとおさまったレモンのかたまりを、レモンの群れへと移す。
まゆみはレモンをひとつ拾って、宙へと放った。
「寂しいよ、きっと。」
「うん。それに、月になったら月の中のことは永遠にわからない。だからたくさんの人に来てもらうの。地球から。」
2人は黙って、レモンを見ていた。
夜空はとても静かだ。