フカヅメ

北生まれ、山羊座、梅くえない

夜のジプシー

銀座の、カラオケ館の前で男と別れた。

深夜2時。 道路工事しているヘルメット姿の作業員が、こちらを見ていた。 エリコは男の立ち去る後ろ姿をしばらく見送った後に、くるりと反対方向に歩き出した。

メトロへと続く階段の入り口にはシャッターが降りていた。 車通りの少ない広々としたまっすぐな道路では、あちこちで工事が行われている。ピカピカと光るイルミネーションのようなこの街は今、オリンピックを目指している。

ホテルに行くのを断ったらカラオケ代を半分とられて財布が空になったので、コンビニのATMで2万円おろした。東急プラザの前で声をかけてきた、名前も知らない男の顔を、エリコは意外にもしっかり覚えていた。

 

 

夜8時。特に用はないのにまたここに来てしまう。最近気に入っている歌手が、この間のイベントで言っていたことを思い出した。

「渋谷のあのスタバで、スクランブル交差点を見下ろしながら歌詞を書いてたんです。」

いつも満席のそのスタバに、僕は今日も座るのを諦めて出た。

カップルの間を、3人連れの女性たちの間を、居酒屋のキャッチが泳いでいる。さらにその間を僕は泳ぎ、短い横断歩道を渡り、ケーキ屋の前もチョコレート屋の前も通り過ぎ、宮益坂をのぼっていく。

 

 

どうしてこんなところまで来てしまったのか。 さゆりは苦笑した。

真っ暗な闇の中を轟音となって進んでいく。巨大な塊という意味では、周りに浮かんでいる黒い島々と何も変わらないこの船に乗って、デッキで強い強い風に吹かれている。 瀬戸内の海は湘南のようにベタついて、人に馴れてはいない。鷹揚で高潔で媚びない。そして、怖かった。

下を覗くと、はるか遠くのように見える海面にサッカーボールがひとつ浮かんでいる。どこから流れてきて、どこに行き着くのだろうか。

午後10時32分、船はかすれた南国風の音楽を鳴らして、小豆島のちいさな港に着いた。今日の最終の便だった。

 

 

エリコはビルの間から見えた東京タワーに向かって歩いていた。東京タワーがどこにあるのかはよく知らなかったけれど、一瞬だけ覗いたそれはとても綺麗だった。

道路はまっすぐ伸び、人通りもほとんどなく、たまにタクシーが何台か続いて走っていくだけだった。

エリコはとても身軽だった。コンビニの袋をぶら下げ、フラットシューズで歩き続けた。

見たこともない街のあちこちで、道路工事の光がいくつも点滅している。新橋。内幸町。日比谷。大手町。シャッターの閉まったメトロへの入り口をいくつか通り過ぎた。 皇居の外側にある大きな池に沿って歩いていると、偽物か本物かわからない白鳥がひとりで浮かんでいた。晴れているのか、月がとてもよく見える。

いつの間にか、さっきまでそこにあったはずの東京タワーは見えなくなっていた。

 

 

一日に何万いや何十万の人が通り過ぎていくだけの渋谷で、24時間のうちのたった1秒、しかもあのケーキ屋の前で。どうして僕は麻木にすれ違ったんだろう。 僕は一瞬で気付いた。顔がパッと目に入ったその瞬間。そしてその次の瞬間に振り返った。麻木もこっちを振り返っていた。麻木は昔とあまり変わらない、少し不機嫌で不安げな表情をしていた。 麻木もこの街にいるのか。 そう思うと、何だか自分も年を取ったんだなと感じた。

僕の方が先に視線を戻して、一瞬緩めたスピードをまた速めて歩き出した。

 

 

これからどこへ行こう。 もちろんホテルも取っていないし、こんな島に漫喫があるとも思えない。スマホの電池も、モバイルバッテリーの電池も切れた。港のそばに大きめのドラッグストアを見つけ、とりあえず入ってみる。

「980円もすんのかよ…」

昨日から風邪ぎみだったさゆりは、葛根湯の瓶を睨みながら立ちすくんでいた。

その後ろを30歳前後のスウェット姿の男女が、カートを押しながらゆっくり通り過ぎていき、40代くらいの野球のユニフォームのような服を着た男が、2リットルペットボトルを3本抱えてスタスタと通り過ぎていった。

「誰でもいいから、泊めてくれないかな…」

そう小さく呟いて、ため息を長く吐いた。葛根湯の瓶を2つ、レジへ持っていく。

店を出て、真っ暗な道を歩き始める。白く光る明るい店を何度か振り返ったが、ずっとここにいても仕方がない。

 

 

スマホの画面を点けると、午前3時半をまわっていた。 エリコは歩き続けていた。景色はあまり変わらなかった。 横断歩道を渡るたび、親切な作業員がピカピカ光る棒で誘導してくれる。道路はあちこちをいじられているので、歩行者に気を向けている余裕がないらしい。

突然、車道を挟んだ向かい側の歩道で

「待ちなさい!」

と大きな叫び声がした。 エリコが見やると、背中にPOLICEと白で抜かれた警官が、猛スピードで自転車を漕いでいた。しかし、何を追っていたのかは見えなかった。

 

 

麻木は小、中と同じ学校だった。東北の、特に観光地もない小さい町で9年間、同じ校舎に通った。 麻木は県内でも底辺レベルの高校に入り、僕はそれなりの進学校に進んだ。麻木は頭も悪かったし、運動もあまりできなかった。陰湿な性格だったので、同級生にも先生達にも好かれなかった。中学に上がってからは口を利くことはほとんどなかったけれど、小学生の時は、僕と麻木はよく一緒に気にくわない奴をいじめていた。

宮益坂をのぼっていく間、僕は麻木のことだけを考えていた。いや、僕が麻木に関して知っていることだけを。

たくさんの人が、坂を下りていく。笑いながら、寄り添いながら、電話しながら。

僕は坂をのぼっていく。

 

 

さゆりは真っ暗な町並みを眺めながら、安堵していた。

「でもすごいな、なんも考えんでここまで来たん?」

白髪まじりの運転手が、前を向いたまま声を発する。よく通る声だった。優しい響きに聞こえるのはイントネーションのせいだろうか。 店を出た後しばらく歩いてから見つけたタクシー会社の表で、タクシーを洗っていた運転手だった。

「そうなんですよ。でもやっぱりもうちょっと考えないとだめですね。」

とさゆりは笑い混じりに言った。

途中、コンビニでおにぎりとモバイルバッテリー用の電池を買い、ATMでお金を下ろした。 素泊まりで7000円。スマホの電池が切れたさゆりに代わって運転手が島のホテルまで取ってくれたのはよかったが、ホテルまでの運賃3000円と合わせて、痛い出費だ。

スマホの画面が点く。いつものホーム画面に、23:34の表示。ああ、なんだ、となんとなくがっかりしたような気分になってしまうのは、なぜなのか。

 

 

日本橋を抜けて茅場町の住宅地を過ぎた。 ビルが減り、風が通る。工事はもう、していない。 マンションの入り口近くに子供用の自転車が置いてある。部屋にはポツリポツリと明かりがついている。彼らの一日はまだ終わっていないんだろうか、それとももう始まっているんだろうか。

目の前に大きな橋が見えた。 夫婦らしき中年の男女が少し距離をあけてゆっくりと歩き、橋を渡り切ってこちらへ向かって来た。 それと入れ違うように、エリコは橋を渡り始める。橋の下には黒々と大きな川が流れている。川の続く先に見える巨大なビル群のしつこい光たちが、そこにこぼれている。 そのビル群のさらに向こう、ビル群よりも高く、赤く光る東京タワーが見えた。

「ああ…ここから見えるの」

エリコはしばらくそれを見ていた。 そしてくるりと向き直り、ずっと歩いて来た道を戻って行った。 茅場町日本橋。大手町。日比谷。内幸町。新橋。

メトロへの入り口が開いた。

 

 

青山通りに出ると少しだけ息がしやすくなる。 僕はもう麻木のことは忘れていた。ただ、2人で誰かの体操服を捨てに行った時の、果てしなく鋭くて苦い高揚感だけを懐かしく感じていた。

青山ブックセンターに入り、ゆっくり店内を見ていく。この間は一周する前に蛍の光が流れてしまったが、今日は一周できるだろうか。 閉店まであと1時間半だ。僕はウォークマンの音量を上げた。最近気に入っている歌手の曲が、リピート設定になっている。

 

 

NHKを流しっぱなしにしたまま、さゆりはベッドに横たえていた。

眠れなかった。 葛根湯を飲み、部屋にあった浴衣に着替え、目を瞑って布団をかぶっていた。

タクシー代とホテル代で、また財布の中身は空になった。熱さとだるさで気が滅入る。

NHKの放送が終わり、画面は止まった。音もしなくなった。

ぼんやりとした夢の中で、さゆりは波打ち際を歩いていた。風が強く、髪が煽られるせいで前がよく見えない。足はズシリと重く、一歩進むたびに無駄な力が入る。

あの街の海は汚い。

制服用の白いソックスが、砂浜に押し寄せるどぶ色の波しぶきで汚れていく。はらってもはらっても、ローファーの中にうっとうしい砂の粒が入り込んでくる。それでも、さゆりは歩き続けていた。 思うように歩けない夢の中で、歩き続けていた。

NHKの放送がまた始まって、島が色を取り戻し、かすれた南国風の音楽を鳴らして船がやって来ても、さゆりは海辺を歩き続けていた。

 

 

エリコはこれから自分の部屋に帰り、だんだん色を濃くしていく時間の中で眠り続けるだろう。

そしてまた、色は失われていく。夜へと。

 

夜明けは夜から近く、夜から遠い。